劣化再生産


 今日読んだはてなダイアリーのエントリで一つ面白いものがありました。町山智浩アメリカ日記の3/13日のエントリです。
 徳保さまのところから飛びました。


 僕は徳保さまの所から飛んだことプラス、当時中国政府が正式に犠牲者数を発表したことが記憶に残っていたので、逆に「天安門広場内では死者が出なかった」という事実に驚きました。
 でも、徳保さまがリンクしてくれているように「天安門事件」では300人以上の死者が出ています。また、あの事件が「民主化要求とそれへの弾圧」であった事実には変わりがないと思います。


 で、面白かったことはその事実関係じゃありません。現在は加筆されていますが、今日の夕方までは天安門広場の外では死者が出ていたことに関する記述はエントリ内にはありませんでした。普通に読めば「天安門事件では死者はいなかった」という風に読めるエントリでした。
 内容的には「センセーショナリズムを盲信するな」というのがメインテーマだったと思います。あるカメラマンのセンセーショナルな一枚の写真が「天安門広場での虐殺」というイメージを確立したが、そこに事実は無かったと言うことです。その写真への盲信がその後の様々な問題を引き起こしていると。


 しかしそのエントリのコメント欄を見ると、そこで生じたのはさらなる「センセーショナリズムへの盲信の劣化再生産」だったことが分かります。「天安門広場内での虐殺」を盲信していた人達にとっては、このエントリに触れることは正にセンセーショナルです。そこで彼らは、その内容を自分で検討、調査することもなく「天安門事件では死者はいなかった」と思いこんでいるのがありありと見て取れます。
 かなりコメントが進んだ後で、控えめに広場外では死者が出ていた事をコメントで指摘されると、町山氏は「虐殺のイメージとは違う」とエントリ内の「死傷者ゼロ」という断定的な記述とは相反するようなレスを返しています。


 きっと、町山氏はセンセーショナルな「天安門広場虐殺」のイメージに対して意図的にセンセーショナルに「天安門事件では死傷者はゼロだった」と読める文章を書いたんだと思います。そのことで読者に「センセーショナリズムを盲信するな」というメッセージを伝えるつもりだったんだと思います。
 しかしそこで起きたことは「盲信の劣化再生産だった」というのがとても皮肉です。


 やはりこのネット時代、様々な情報が手軽に手に入りますが、その情報は極力自分で検討や裏付け調査をする必要があると思います。今はgoogleなどで簡単に様々な検索を行えます。それをしてみるだけでも全然違いますね。
 そう言う意味でネットでの情報発信と収集の危なっかしさを感じさせた出来事でした。


※追記
 このエントリアップ後、ご本人から内容が一部誤認である旨指摘を受けました。修正しました。
 ただ、そこで起こっていたことに対する僕の認識は変わりません。