死んで詫びるということ


 先日、鳥インフルエンザを蔓延させた浅田農産の会長夫婦が自殺しました
 このこと自体は痛ましい事件ですが、ちょっと「死んで詫びる」ということに関して考えさせられました。


 もともと色々と考えてはいたんですけど、そのことを書こうと思ったきっかけは徳保さまの「ご冥福をお祈りいたします」と言う記事です。曰く

ところで、死んでお詫びすることを無責任という人は多いけれど、その批判は無責任じゃないのか。と、思う。

ということです。言いたいことはもちろん分からなくはないです。でも、上の一文が成立するためには、ふうこさまが分かりやすく論じられているように「自殺による謝罪」と言うものが成立していなくてはならないわけです。
 僕も「自殺による謝罪」というのは特定の場合を除いて成立しないだろうと考えます。特定の場合とは殺人を犯した場合のみです。社会による個人への死の強要と言う意味では死刑も同様だと考えます。この辺に関してはまた別項に譲ります。


 で、考えなくてはならないのは日本人或いは日本社会にある程度浸透していると思われる「自殺による謝罪」という考え方はどのような経緯で成立して、それは受け入れられる、或いは受け入れられるべきものなのかということです。
 僕は、この考え方は葉隠の有名な一文「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の誤解から生じているものだと考えています。


 こちらのサイトでまとめられているように、日本における「自殺」というのは、主に「切腹」の形を取って武士社会で生じ発展(?)してきました。ただ、初期の切腹はあくまでも「つかまったら殺される」状況においてのみ見られたものだということが重要です。
 後にそれが「責任を取る」という状況において行われたこともあったようですが、それはあくまでも常に死と隣り合わせにある乱世の武士社会における状況であって、平時の状況ではありません。


 その証拠に、平時の時代である江戸時代に物された葉隠で語られる「死ぬことと見つけたり」は、死ぬことで責任を取るとか命をささげることに意味があるとかと言う意味ではなくて、「命をかけて使命を全うする」という「心持」を解く文脈で使われています。
 そこでは、事後の打ち首を覚悟して君主を無視して大事を進める家老や、影腹を切って君主を説得する家老というようなものが引き合いに出されます。決して自分の命の価値で何かを償おうという思想ではありません。命をかけて奉公するという思想です。最近良くビジネス書などで、葉隠が組織人のための究極の書物的な扱いをされるのはこのあたりの話です。


 ところが、これが明治期に知識人層や軍人に広く読まれて広まった後に、武士道への憧憬と相まって「命を捨てることに価値がある」という誤解として広まってしまいます。「お国のために命を捨てる」という思想に基づく特攻隊へと繋がっていくわけですね。それと平行して何か大事を起こしてしまったときに自殺することで謝罪に換えるというようなことが広まってきたようです。
 しかし、それは乱時の武士道や葉隠にとかれる「生と死」とは全く離れてしまっており、ふうこさまが論じられているように通常の社会においては「死における謝罪」というのは成立していないことが分かります。単に責任からの逃避と、被害者や批判者に対する「口封じ」としてしか機能しません。もっとも、その「口封じ」の機能が「自殺による謝罪」という文脈においてもっとも大事な機能であることには論を待たないと思いますが。正直「死んだ人を悪く言う」のはかなり難しいです。


 というわけで、僕は日本社会に見られる「死んで詫びる」というのは、乱時の武士の「生と死」が歪んだ形で現代に投影されているものであり、そもそも「謝罪」としての機能は果たしていないと考えます。浅田夫婦も本当に迷惑をかけたと思ったのなら、私財を投げうって、自らの身も投じて鳥インフルエンザのこれ以上の蔓延防止に取り組めば良いのです。
 もちろん、日本人の責任に対する精神的な弱さとか、文化的な死への憧憬傾向など他に語るべきことはたくさんあるとは思います。しかし、やはり僕は「死んで詫びる」というのは社会的に受け入れるべきではないと考えます。


 付け加えるなら、僕は「死んで逃げる」というのは肯定します。どうにもならなくなったときに死んでその状況から逃げ出したいという心情は理解できる。だから、もし浅田夫婦が「もう勘弁してください、逃げます」といって死んだのなら僕は哀惜の情を惜しむことはありません。人間はそれほど強い生き物では無いからです。
 しかし、それと「謝罪」とは全くの無関係なのです。「死んで詫びる」というのは到底受け入れられません。


 と、ここまで書いて元記事を見直してみたら、浅田夫婦の遺書と思しきメモには「大変御迷惑をおかけしました」としか書かれてなかったようですね。これですと、「死んで詫びる」ために自殺したのかは定かではありません。
 上にも書きましたが、自ら逃避であることを自覚しながら自殺されたのだとしたらそれはとても可哀想なことです。ご冥福をお祈りします。