自然に使えるということ。


 こちらで、僕の尊敬する(?)モバイラーの一人である物草さまがエッセイを書かれています。
 最近購入されたというDIGAで撮ったTV番組を、職場の女性に貸してあげて、その女性はそれを携帯で見たと言う話です。それと、その女性が携帯電話を非常に自然に自分のツールとして使っているということを書かれています。


 このエッセイのポイントは以下の点だと思います。エピソードとしては

  • DIGAと最新の携帯というPCやPDAとは全く関係なさそうな物で「モバイル動画」が簡単に実現できる。
  • 特にデジタルに強いと言うことはない人でも普通に使うことが出来る。
  • そのモバイル端末としての携帯は普通に人々の生活に入り込んでおり、それで動画を見るなどということにも特別な歓迎も拒否はない。

 という点。また、そういったエピソードから物草さまの視点として

 PDAという言葉にこだわるから、PDAと携帯電話を対立させたくなる。対立させなくても線引をしてしまう。PDAと携帯電話が融合しても好いじゃないか。なぜ敵対させるのだ? PDAという言葉で考えるからじゃないのか? PDAという言葉で自らを縛って大きな夢を描けるのか?

ということが書かれています。このPDAと言う言葉やジャンルに関して否定的な論調は、物草さまの従来からの持論ですね。その言葉やジャンルがPDAを縛っているというのには僕も大きくうなずけます。


 やっぱり、自然に身につけている道具でいろんなことができるようになるのがやっぱり便利なんですよ。もちろん今の携帯には出来ないことも沢山ありますけど、その出来ないことをするためにもう一つデジタルガジェットを持ち歩こうっていうのはやっぱり不自然なんです。
 不自然なことをするって言うのはやっぱり好きか必要じゃないと難しいですよね。特にマルチメディアに関しては簡単じゃないと難しいです。動画のエンコードとか、普通の人じゃ絶対やっていられません(^^;


 誰もが自然に使っている携帯電話。これがどんどん「万能手のひら端末」になっていって欲しいです。もちろん、そうなっても多くの人がその機能を全て使うことはないでしょうけれどね。それはそれでいいんです。