なんか違和感


 昨日夜のTVニュースで例の関学ワンダーフォーゲル部員が会見を開いて(?)謝罪している映像を見ました。
 他のことをしながらちらっと見ただけなので全体は把握していませんが、いかにも病院着のまま口々に反省の便を述べていたような感じでした。


 これって凄く珍しくないですか?僕が普段気にしていないだけ?
 山での登山者やスキーヤーの遭難なんてそれほど珍しいことでもないしそのたびに救難活動は行われますよね。そしてその遭難の原因の大半は遭難者の判断ミスです。今回の遭難と救助はあらゆる意味で珍しいことじゃないとも思います。


 では、なぜ彼らだけTVの前で謝罪しているのか?僕は今のマスコミにありがちな「若者叩き」なんじゃないかと感じたんですよ。若者の行動を「非道徳的」だとか「自分勝手」とか「未熟」だとか非難しておけば、そりゃあそれらしい記事になります。
 件の記者会見がマスコミ側が設定したものなのか関学側が設定したものなのかは分かりませんが、関学側が設定したものだとしても「叩かれる」という潜在意識が謝罪会見を設定したんじゃないかと勘ぐってしまいます。


 まあ、勘ぐりすぎかも知れませんけど、中高年の遭難者が救助されて謝罪会見している所なんて見たこと無いもんですから。なんか違和感を感じてしまいました。

おっ!?反応あり?


 昨日酷いことを書いた(^^;Yasさまの所で、昨日の日記にこんな記述がありました。

「専業主婦はセックス付き家政婦」と書いたことに対して、反論や異論があった。

私が書いたのは、現実がどうなっているのか、というところである。今の現実は、私の道徳観や理想とは、まったく別のものである。

おっ!? これはこっちを読んでくれたのかな?と思ったりします。でも、あちらは1日約5,000のアクセスがある人気サイトですから思い上がりかな?
 でもまあ、僕への反応だと勝手に思いこんでその辺を少し。


 でですね、確かにYasさまの日記は「データや他人の書籍での記述から現実を分析する」というスタイルで書かれています。しかし、だからといって、現実の分析だけが行われているのかというとそうではないと僕は考えます。
 「データや他人の記述による現実の分析と理論化」は人文科学系の常套的な手法です。しかし、それは何のために行われるのかといえば、殆どの場合は自分の思想や信念を裏付けるためにデータや先駆者の理論を引用するんです。


 また、何らかのデータに基づいて何らかの現実分析を行い、それを公表するという行為はなんの為なのか?それは、その分析によって出てくる結果を世の中に受け入れさせる為なのではないでしょうか?
 そこにはやはり、受け入れさせる事により何らかのメリットが書いている側に発生すると考えるのがきわめて自然です。別にその分野の研究者でもない限り発表したからと言って、それだけで何か現実的にメリットがあるわけではありません。


 つまり、Yasさまは「これが現実なんだ」と書くことによって、「俺はこう思う」と公言できないことを公言しているんじゃないか。僕はそう思うわけです。
 Yasさまの日記を読んでいると、「私はそうは思わない」とか「私は同意はしない」という主旨の記述が結構見受けられます。しかし別のところでは同じように考えているのではないかと伺わせる記述があったりするのも事実です。例えば家事労働とセックスサービスを提供することで養われる専業主婦は嫌いだと言いながら、日本人の妻とフランス人の愛人がいることが理想の結婚というのは明らかに矛盾している。また、フランス人の愛人がセックスを拒否することはこの場合想定されていないと思います。


 なんて、別にYasさまを叩きたい訳じゃないんです。出来れば彼とコミュニケーションをして、彼が何を考えているのか、どういう視点であの日記を書いているのかを理解したいんです。で、反論してみると。
 やはり、個人サイトであの“過激”な内容であれだけのアクセスを受けている。興味ありますよね。まあ、Yasさまの日記から読みとれる女性観が僕と正反対と言ってもよくてチクチクしたい、っていうのもちょっとはありますけど(^^;


 また反応してくれないかな〜。っていうかTrackbackしたいよ。